APD/LiD(聴覚情報処理障害/聞き取り困難)の記事
小さい頃の記憶は、あまりない 一番最初の記憶として思い出すのは 朝、目が覚めて、布団の上で起き上がったら、そこに座っていたのは 母ではなく、同居していたおばあちゃん(父の母親) 思わず「ママは?」と思ったか、言ったか その後、お誕生日のケーキを朝ごはんに食べたような気がする もうひとつは 私は道路かどこかで遊んでいて そこにバスが来た バス停からそのバスに母が乗り込むのが見える 母は私には気づいていない 私は大声で「ママーっ!」と母を呼ぶ でも、母は私の声に気づかないまま、バスに乗り込んでしまった どちらも私が幼稚園にあがる前だと思う そして、このふたつの記憶が、ほんとうにあったことなのか 私…
幼稚園にあがる前の私の記憶に出てくるのは、母よりも祖母だ おんぶされて散歩にいったのも 「しんびょうまてまて」と寝る前に、枕元でお話をしてくれたのも 私が近所の家にあがりこんで、ちゃぶ台に載ってたお漬物を食べたことを笑ったのも 母ではなく、祖母だった 母は近所の電気器具屋かどこかで、働いていたらしい 数年前に、思い立って父に「どうして初めての子供の私をおばあちゃんに任せて、ママは働きに出たの?」と尋ねた 返事は「家に、女手はふたり必要なかったから」 ハイカラな街、函館で、商いをする家に生まれて、乳母日傘で育ち、私立の女学校で人気者だった、美人でスタイルも抜群だった母 高知の片田舎で、貧乏ながら…
大人になって行った専門学校の心理学の授業で 子供の心理についてがあって、母親と離れ離れになって、やっと再会できた時 子供の反応には3通りある、と ひとつは、「お母さーん!」と呼びながら、母親に駆け寄って抱き着いて喜ぶ ふたつめは・・・うーん、憶えてない・・駆け寄って、泣くんだったかな・・・? みっつめは、何も言わずにそこに立ち尽くす、もしくは背を向けて歩き出す クラスメイトがいっぱいいる授業中なのに、その場で泣きそうになった 私は3番目なのだ みっつめの子供に、すねていじけた幼い自分が重なって、目頭が熱くなって、鼻の奥がツーンとした 母がいつもそばにいてくれないのが、寂しくて、悲しかったはずな…
うちは、父親の転勤で引っ越しが多かった ほぼ3年ごとに、引っ越した 生まれたのは、東京は葛飾区、柴又の近くの亀有である 一軒家の社宅住まい その一帯が道路になるので、神奈川県鶴見にある団地の社宅に引っ越した ここで小学校にあがったけど、ほとんど記憶はない その次は、長崎 今はもうなくなった夜行列車のさくらで、一家揃って赴任した 食堂車で朝ごはんに、初めて見たオートミールを頼んで、まずかった 慣れない味に気分が悪くなった 社宅のあった場所は、原爆の爆心地に近くて 8月9日の記念日になると、まだ小学生低学年の私でも、悲しみが空気に漂うのを感じた 仲良しの友達がいたかどうか、覚えていない 次は、広島…
母は、とても美しい女性で、ミス函館にも選ばれたらしい スタイルもよかった 子供の私に、いつも上等なかわいらしい洋服を着せてくれた 不思議なことに、当時来ていたワンピースやセーターなどの手触りを、今でもかなりはっきり思い出せる ただ、紺やグレーが上品に見えるとかいって 私の服は、そんな色が多かった ピンクや赤っぽいのは少なく、フリルやリボンがついたものも少なかった 女学校ではソフトボールのピッチャーで国体にも行き、下級生から人気があり 父と出会った職場でも花だったであろう母は、いつも優等生でいたかったのか 父の栄転で、長崎へ引っ越して、課長婦人としてがんばらなきゃと張り切ったあげくに躁うつ病にな…
母との思い出で、思い出すたびに胸が締めつけられるようになることがある 広島に住んでいた頃のような気がするから、小学校高学年だ 私は、何かのことで母に手伝ってほしいと頼んだか、何かを尋ねたんだと思う はっきり覚えていない はっきり覚えているのは、母の返事が 「ママがいなかったら、どうするの?」 だったことだ 私は反射的に、カチーンときて 「ママがいるから、きいてるんじゃないっ!?」 と激昂し、同時に 「じゃあ、いいよ!もうきかないっ!(尋ねない)」 と心底拗ねた 実際に母にそう言ったのか、心の中でそう叫んで心のシャッターをぴしゃっと下ろしたのか、覚えていない 母からもらいたかったのは、そんな返事…
昨日、1月10日は、母の命日である 何回目の命日なのか、数えていないから覚えていない 母は、衝撃的なかたちで、この世を去った 1月10日、私は当時勤めていた東京の会社で、残業をしていた たぶん8時過ぎだったろう、職場の広いフロアは、ほとんどひとけがなかった 私は、九州の支社に転勤になった以前の上司と電話で世間話をしていた (彼も残業をしていた) すると一緒に残業していた、同僚男性が私にメモをよこした メモには「病院から電話です」とかなんとか書いてあった 取り次いでくれたのか、私が病院に掛けなおしたのか、記憶にない 電話の向こうで病院の人が 「お母さんの心臓が止まりました。すぐ来てください」 と…
通夜も葬儀も滞りなく、終わった 火葬場で、母の棺が焼却炉に入り、扉が閉じられると 妹が泣きながら何か叫んでそちらに行きそうだったので、後ろから引き留めた その後は、彼女のその時のボーイフレンド、今の旦那さんに任せた 母が亡くなってから、葬儀が終わるまで、私はほとんど泣かなかった 母が病院から家に戻った晩、安置された母を見ながら、思わず 「なんで寝てるの?」 「あんなに眠れないって、言ってたじゃない」 と言い始めたら、泣けてきた 私の後ろに座っていた叔父が泣く声が聞こえた 出棺の時、母の遺影を抱えて、参列してくださった方々の前に立ったら、涙が出た 妹からは「おねえちゃんは、なんで泣かないの」と言…
結婚後、最初に母に精神的な不安定が発症したのは、父の栄転で家族揃って長崎へ引っ越した後だった 「課長婦人なんだから、がんばらなきゃ」と張り切りすぎた結果らしい でも、通院でわりとすぐに収まったようだ 私は小学生の低学年だったから、あまり覚えていないが、父の自伝本にそうあった その後引っ越した、広島と伊丹では発症はなかったらしい 妹が生まれて忙しかったんだろう 私が中3の秋に引っ越した、小金井で再発した これは私も少し覚えている お隣の家にあがりこんで、ペラペラペラペラ、おしゃべりが止まらず お隣の人を困らせたらしい でも、この時も、通院でことなきを得たようだ その後、市川へ引っ越し、寝たきりの…
暮れも押し迫った頃に亡くなった伯父の通夜と葬儀に、父と参列した 葬儀が終わった後、川西で留守を守る母に電話をしたら 電話には出るが、ほとんどしゃべらない 何か尋ねても、答えが帰ってこない これはおかしい また調子が悪くなったに違いない 父とふたり新幹線(だったと思う)で、川西へ取って返した すでに大晦日だったと思う 母の状態はあきらかに悪化していた その母を見て、父はものすごく不機嫌になり また始まった、としか私には思えない、グタグタが嫌で 年越しの人で賑わう近所にある神社へ、避難がてら歩いて行った 歩いていく私の背後から、母が「○○ちゃーん」と呼んだのが聞こえたけど 手を振って、そのまま神社…
いつ頃から、父を嫌うようになったのか 最初は、好きだったはずだ 祖母におぶわれながら「パパはいつスイカをかってきてくれるの?」と聞いたらしい 父が買ってきてくれた(んだと思う)白い犬のぬいぐるみが、お気に入りだったらしい 首にピンクのリボン(だったと思う)がついていて、その下の胸の部分が擦り切れて、中の藁が見えていても、まだ持っていた 父の自伝本には「毎週のように肩車して上野動物園に連れて行った」とある 記憶はない 小さい頃、父に「布団蒸し」された ふとんの中に巻き込むように、ぐるぐる巻きにされた 苦しいし、怖いしで、私は泣き叫んだ どういう理由で布団蒸しにされたのか、覚えていない 父が怒って…
私はどんな子供だったのか 父の長姉である伯母によれば お店にはいって、きつねうどんを注文して、うどんが運ばれて来ると 「きつねはどこ?」といって、箸で探してたそうだ きつねを食べるつもりだったのか・・・な? 家族で寄席にいったらしい 舞台の袖から出てきた林家三平に向かって 「さんぺいちゃーん!」と大声で叫んだそうだ 喜んだ三平ちゃんは、自分の噺が終わって、袖に引き上げる時に 「お嬢ちゃん、バイバーイ」と何とか言ってくれたらしい なかなか度胸があるじゃん お隣の居間にあがりこんで、ちゃぶ台の上に体を伸ばして のっかってたお漬物を食べた という話も聞いた 遠慮のない子供だ もともとは、結構、天真爛…
いちばん身近な存在のはずの、母親とも父親とも、幼い頃から信頼関係が築けなかった いつの頃からか、自分の周りに壁を作って、鎧兜を身に着けて、自分を守っていた 何かあれば、すぐ心のシャッターを下ろして、ひざを抱えて丸くなる 私の心は、どんどん固くなっていった 耕されなくなった土地のように あまりにも硬くて、水も浸透せず、ただその上を流れていく 両親はもちろん、周囲のひとを意識的に遠ざける私には、周囲からの優しさや思いやりは、伝わってこなかった あっても気づかなかった、気づけなかった それなのに、私は異性に救いを求めようとしていた 初めて「好きになった」と思ったのは、広島の小学校の同級生 学級委員に…
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洋館や教会があちこちにある、異国情緒豊かなな港町の函館で育ったせいだろうか 私立のカトリック女子高へ通ったせいだろうか 海産物卸業をする家に生まれ育った、乳母日傘で、ソフトボールのピッチャーだったべっぴんさんの母は、クラシックが好きだった でも、コンサートに足を運んだことは、なかったと思う 地方に住んでいた時はもちろん、東京に引っ越しても 年末に恒例のウィーンフィルの演奏が、NHKで放映されるのを、台所でおせちの支度をしながらうれしそうに聞いていた 一度くらい、当時できたばかりだったサントリーホールへ連れて行って、コンサート聞かせてあげたい、と思ったけど、実現しなかったはず そんな母の影響なの…
私が生まれた時、一家4人が住んでいた亀有の借り上げ社宅から、鶴見の新築の社宅団地へ引っ越した 借り上げ社宅の区域が道路になるから、立ち退かないといけなかったんだと思う 多分、東京オリンピックのためだろう 今、思い出したが、亀有の他にも板橋にも社宅があったはずだ 両親たちは、そこにも住んだんだろうか・・・? わからない 後で気が向いたら、父の自伝冊子を見てみよう 私の記憶では、鶴見の団地は、少し小高い場所にあって、前も後ろもひろい野原だった というか空き地だったんだろう ひとりで野原に座ってシロツメクサを摘んで、花の冠を編んだ 男の子たちと一緒になって、団地の玄関の前に置いてある配達ボックスから…
父の転勤で、鶴見から長崎へ家族4人で引っ越した 小学校1年から3年まで、城山小学校に通った でも、学校のことは、先生のことも、教室のことも、同級生のことも ほとんど何も記憶がない 借り上げ社宅は、爆心地に近く、家の近くを大きな川が流れていて、そこに橋が架かっていた 橋から釣りをしていた人もいたような気がする この川は、浦上川だったんだと思う 通った城山小学校も爆心地に近く、相当な被害を受けたはずだ 長崎出身の父の元部下の女性は 「どうしてあそこを社宅に選んだのか」 「爆心地の近くで被害がひどかった場所で、私なら住みたくない」 と後に私に言った どうりで、原爆記念日の8月9日になると、まるで空気…
長崎に居る頃から、私はすでに子供のくせに、冷めた考えを持ち始めていたと思う 「どうせまた3年経てば、引っ越して、転校になる」 だから友達を作っても仕方ない、とまでは考えてなかっただろうけど 友達、という言葉は、私にとって長い事「空虚」なものだった 仲良し・・・なんて、まったくもって何なのか、わからない関係 そして、3年後に、長崎から広島へ引っ越した ほらね、やっぱりでしょ・・・って感じ それにしても、私の父と母は、まだ小学校3年生の 私の心情、というものを 考えたことがあったんだろうか? 家では、嫁と姑の関係はもちろん、母親(祖母)と息子(父)の間でも、いさかいはしょっちゅう その家庭で育つひ…
こうしてブログに過去のことを書いていると、ふと思う 「ああぁ~、なんか、私もパパと同じことしてるじゃん 」 母が亡くなって、勤めていた左遷先の関西にある会社を退職して、市川の自宅に戻ってしばらくたった頃 父から自伝めいた内容の葉書が、時折届くようになった 偶然その内容を見た、友達は「お父さん、大丈夫?」と心配そうに私に尋ねた その心配は、父の健康とか妻が亡くなって精神的に参っているのでは、というたぐいの心配ではなく、ハガキに書いてある内容の異様さに驚いて 「お父さん、ずいぶん異常な人みたいだけど、大丈夫なの?」 というのが、本音の心配だった 彼女の尋ね方でわかった それは回顧録だが、読んであま…
家族や親戚など、身内に対する父の異常とも言える言動は、時として凄まじかった 年老いた母親の胸ぐらを掴んで、引き倒さんばかりになった時は、手が出たが ほとんどは、激しい言葉と強硬な態度による暴力だった 家族で夕飯のテーブルについて、鍋を囲んでいたある晩 椅子に腰かけた、背中が丸くなり小さくなった祖母には、ポータブルコンロの上に乗った鍋は、高すぎて手が届きにくい 私は「おばあちゃん、取ってあげようか」と声を掛けて、祖母の器に鍋の中身をよそおうとした 途端に横に座った父から 「余計なことをするな!なんでも自分でできるんだから、自分でやらせろっ!」 という罵声が飛んだ 故郷の高知に住む姉(私の伯母)の…
社会人になって、仕事や飲み会などで家にいる時間が減った 職場では一所懸命仕事をすれば、上司がほめてくれるし、取引先の人たちとのやり取りも楽しかった きちんとやれば、ちゃんと評価される これまで家で経験してきたような理不尽さは、まったくない うれしかった 家の嫌なことも遠のいたようで 「あんなに子供時代は大変だったと思ってたのに、大人になってなんともないなんて不思議」と思った記憶がある もちろん何ともない訳はなかったが、その時はまだ気づいていなかった 会社の清掃や茶碗洗いなどの雑用をしてくれてたおばさんのひとりが 腰かけ3年をはるかに過ぎても、いつまでも嫁に行かずに働いている私に 「うちの親戚に…
父に反抗しながらも、父の言動に私は振り回された 高校受験をきっかけに英語が得意で好きになったから、大学は英文科に進もうと思った 受験は、数学が苦手で嫌いだったから、共通一次のある国立ではなく 得意な文系科目に絞って勉強したほうがいいと思った そう父に言ったら 「やってみないでどうする!」 押し切られて、嫌々理系の勉強もせざるを得なくなった 私の志望校のリストを見て、担任の先生が私に言った「浪人するつもり?」 当然ながら、国立は落ちたし、他の私立もほぼすべて落ち、たったひとつ女子大の英文科にひっかかった 大学卒業後、何をしたいのか全然わからなかった どういう訳か、父は大学院に行きたいならそれもい…
戦時中のモノがない、食べ物もない時代に、多感であろう少年時代を過ごした父は モノを買う時はよいものを 食べる物は、美味しいものを求めた 戦後の高度成長期で、経済的にゆとりもあったんだろう、少々値が張っても、いとわなかった 品物を選ぶセンスも悪くなかった、どちらかといえばよかった 市川のマンションの木製のダイニングテーブルとイスのセット 川西の家に引っ越した時に買った、ブルー系のペルシャ絨毯 私に買ってくれた薄い長方形のフレームに、薄っすらパープルがかったワニ皮のベルトがついたおしゃれな腕時計 就職祝いだったか 私の目からみて、どれもセンスがよかった でも、贈り物にまつわる思い出には、今でも思い…
父は、人間として、男として、未熟だったんだろう 当然、夫としても父親としても 社会的な立場から見れば、ちゃんと機能している大人と認識されていただろうが 家庭においては、機能不全の自分勝手な人間だった そして、今思えば、酒乱だったんだろう 戦後復興期の景気のよい時代に、その会社では珍しい東大卒として、管理畑を歩いてきた父は、ワーカーホリックにはほど遠く、たまに接待や飲み会があったくらいで 平日もけっこう家で夕飯の席についていた印象がある そして、飲み始め、話し始めると、それが批評や批判、非難になることがしばしば 私たち家族や親戚に対しての時もあれば、社会一般についての時もあったろう そんな話につ…
私は、子供の頃から、自分はおばあちゃんっ子だと思っていた ものごころついた頃から、そばにいたのは母ではなく、もっぱら祖母 幼稚園にあがる前に、朝目覚めた時に横に座っていたのは、祖母 私をおんぶして子守りしてくれたのも、祖母 寝る前にお話しをしてくれたのも、祖母 梅酒でかき氷を作ってくれたのも、祖母 手編みのセーターを作ってくれたり、ほどいて編みなおしてくれたのも、祖母 ゆかたを縫ってくれたのも、祖母 新聞に入ってきたチラシを見ながら「このページのどの服が好き?」って遊んだもの、祖母 エビオスや養命酒を飲んだり、せんぶりという薬草から煎じた苦いお茶を飲む姿を見たのも、祖母 門限に遅れて帰ってきた…
「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」 これはある日、母が私に言ったことだ 3人の機能不全な大人に囲まれて、機能不全な家庭に育った私は、いつも答えを探し続けていた 自分の「問い」がなんなのかわからないまま、「答え」を探していた 加藤諦三の「愛されなかった時どう生きるか」など、自己啓発の本を読み漁った 「アメリカン・インディアンの教え」みたいな本も読んだ でも、欲しい答えは見つからなかった 見つかったような気がしても、また次の壁にぶち当たった 母はそういう本は読んでいないようだった 「どうしてこういう本を読んでみないの?」と母に言ったこともある 本を読む代わりに、宗教に片足を突…
戦争中に少年時代を過ごし、飛行機乗りになりたいと思い、食べるものも満足にないなか育った父は、食べることが好きだった 戦争中、カボチャばかり食べさせられたから、もうカボチャはいらんと言っていた 長崎、広島、伊丹と引っ越した先々で、お客があると当地の名物やら美味しいものを食べに行った 「旨いものを食わせる」ことが、父にとっての最大のもてなしであり、愛情表現だったと思う だが、大金をはたいて、喜ばせたいはずの相手の気持ちには、いっさいおかまいなし、というよりも、人の気持ちというものが、恐ろしいほどにわからない男だった 海外在住も長くなった頃、里帰りした時に「鮨を食いに行こう」という父と一緒に、気はす…
最近になって、つくづく思う 母親が子供に与える影響は、大きい ものすごく大きい 父親の比じゃない 世の中で、大きな仕事をする人は、ほぼ例外なく、母親を慕っている、愛している、感謝している それを公言できる ジェーン・グドオール女史も RBG(ルースベイダーギンスバーグ)最高裁判事も バラック・オバマ元大統領も ミシェル・オバマも カマラ・ハリスも (バイデンもそうかもしれないけど、事故死した最初の奥さんと娘、若くして亡くなった長男のことが表にでるので、お母さんのことはあまり知らない) 違う言い方をすれば、母親からのポジティブなサポートなくしては、こういう人たちは存在しなかった、だろうと思う そ…
母は私に「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」 と言ったが 私も、自分を大事にするって、どういうことなのか、わかってなかった よって、当然のことながら、今考えれば、自分をまったく大切にしない行動をとった 一番、顕著なのが、そして我ながら痛ましいのは、処女を喪失した時だ 大学生の時だったけど、正確にいくつだったのか、覚えていない 二十歳すぎていたか、いないか・・・だったと思う 相手は、伊丹の中学校時代の友達で、彼もたまたま父親の転勤で、東京に暮らしていた どうやって、再度つながったのか記憶にないが 中学時代、頭が良くてカッコイイと、女子に人気のある子だったが、私は他に片思いして…
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さて、、、数日前、、、真さんついに立体マスク作り成功の快挙のニュースが届きました、、、コロナ初期の頃から手作りマスク作りの研究の成果、、、、 私は素晴らし…
さて、、、真さん、、今日のお仕事終了、、、何とか一週間乗り越えましたね、、、 先週は不調で、、一日お休みしましたが、、、今週は頑張りましたね、、、、 前日姪…
さて、2月初のブログ更新、、、一週間前体調崩して真さんお仕事今年初のお休み、、、そんな中での投稿ですね。 体調はかなり戻りました^^昨日の節分で久しぶりにお米…
~閑話休題~ (34)これまで 書きためてきたものをまとめました☆☆☆メグお姉ちゃん 愛ちゃんと虹の橋の上で 仲良く遊んでいますよ…かーさまのブッヒちゃんがBLOGをアップされています、見てあげてくださいね…ぶっひちゃんのところの エヴァちゃん
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どのように生きるのか 一緒に生きながら 考えていきましょう^-^
昨日は、心療内科へ行きました。 以前受診していた病院は、一ヶ月以上先にしか予約がとれなかった。 待てないので、検索して近くで見つけられたので、電話してから行って来ました。 一番驚いたことは、全く私の顔をみないことです。 こう医者がいるんだ。 ただ机の上の紙を見ながら、話すばかりです。 薬をもらいたいので、落胆しながらもやり過ごしました。 私への診療時間が、結構長かったのですが、会計の時わかりました。 診療30分と記載されてありました。 しっかり診療報酬として規定があるのかもしれません。 薬は3種類で、20日分もらいました。 少しでも、効果があればいいのだけど……
畑には3本のイチジクがあります。 昨年は豊作で、食べ切れないほど実りました。 私が元気なら、今年もイチジクの世話をしたかったのですが、膝が痛くなってしまい、もう無理です。 このままにしておくと、大株になるので枝を切り詰めました。 1本の半分もできなくて、全部が終えることができるだろうか😔 膝が痛くなってからは、気持ちが落ち込んで、食欲もなくなりました。 心療内科を受診したくて、知っているクリニックに予約しました。 予約日は、4月27日になりました。 一ヶ月以上も先です。 長すぎます😔 このクリニックは、以前お世話になっていたので、知った病院がよくて、ここにしました。 待てるだろうか…… 他のクリニックも探してみようと思います。
心の悩みを紐解いて行くちょっとした一言を書いています。 悩みの根っこを自分で知る事で、心がリセット出来る様になります。 LINE公式カウンセラー 心屋認定講師
心身ともにリフレッシュでき、疲れをリセットすることができるリトリート、ヒュッゲ。 リフレッシュするために行っているコト、場所などシェアできると嬉しいです^^
目に見えて分野として、スピリチュアル×心理学を使って、健康になって幸せを目指せます。
生まれながらの性格を元に作られた性格統計学。自分の本来の性格を知って健やかに暮らしたい♪を学びながら実践!!
私たちの感情はネガティブに支配されがちですが、そこも愛して自己肯定して、自己受容して行く生き方のコンテンツになります。ご自由にご参加下さい(^^)
性格、能力、学歴、身体的、金銭面、家族、人間関係、年齢、会社… 人には様々なコンプレックスがあります。 それを力に変えたい/変えたという記事募集中です!! みんなで持ち寄って人生の糧にしていきませんか?